【誕生日】12月1日はジャコ・パストリアスの誕生日です
2016/12/12 49号
世界が仰天したジャコ・パストリアスの肖像
本当は12月1日にこの記事をアップするはずだったのですが、ミュージック・ソムリエ・ドットコムからハノーヴァー・マヌーヴァーに移転する作業で間に合いませんでした。12月1日はジャコ・パストリアスの誕生日です。
ジャコ・パストリアスの何から語りましょうか。まず語るよりも「ジャコ・パストリアスの肖像」というアルバムを聴いてみてください。一曲目ドナ・リーを聴いてどう思いましたか。
元曲のサックスのチャーリー・パーカーの演奏を知らない方でも、「うん、何じゃこら!?どうなっとんねん」と腰を抜かしたことでしょう。
後ろにパーカッションが入っていますがまるでそれと一体となったかのような転がるリズミカルな音、それが不思議とメロディーを奏でている。しかもところどころビヨーンビヨーンと音が下がっていったり、チャラバーンとコードがなったり・・・何かの音階を出せる新種の打楽器でしょうか。
ジャケットは物静かなフランスの青年風だが
これをベース一本でやっているのがジャコパストリアスなのです(本名 ジョン・フランシス・パストリアス・三世)。
10代ですでに天才だった
音楽一家に生まれた彼は幼い頃からドラマー兼歌手の父親の演奏に付き添っていました。彼も最初ドラムを叩いていました。この経験が彼のパーカッションともいえるしメロディー楽器ともいえるような不思議な演奏を生み出す元になっているのでしょう。すでに地元フロリダのクラブでR&Bのコピーバンドで演奏していましたが、15歳でベースに転向し、以降、ひたすらこの楽器に打ち込みます。
18歳の時にはすでに家族に「俺は世界一のベーシストだ」と言っていたそうで、これだけだと夢多き少年というだけなのですが、彼の実力は本物で彼が後に言った有名な言葉、「大口を叩いているわけではない、もしそれが本当に裏づけがあれば」(It ain't braggin' if you can back it up)のとおりに、たちまちフロリダでは有名人になって行きます。
彼はウェインコクランという頭が氣志團のような、白人R & Bシンガーのバックをしたり、前衛ジャズのポールブレイと一緒にレコーディングしたりして、徐々にメジャーシーンへととび出すチャンスを待っていましたが、24歳でハービーハンコックやブレッカーブラザーズなどの豪華メンバーで例の「ジャコパストリアスの肖像」を録音する契約を勝ち取りました。
同じ頃近くに早熟な天才がいて、彼の名はパット・メセニーでした。もともと親交があった二人は、ジャコが録音を終えた一ヵ月後、ドイツECMレーベルでパットのデヴュー作にしてこれも革新的な内容の「ブライト・サイズ・ライフ」を録音します。
サイドギターのようなピアノのようなベース
メセニーを教えたことのあるヴァイブ演奏者のゲイリーバートンは、「パットの相手役を務めるベースのジャコパストリアスもまた、驚くべき才能を持った若者であり、エレクトリックベースの真の革新者である。この二人の才能は拮抗しており、演奏は見事な調和を見せている」(Punk Jazzのライナーノーツより引用)と述べています。実際聞いてみると、ジャコのベースはサイドギターのようでもあり、ピアノのようでもあり、時に二人目のソロギターでもあるかのようにメロディーを奏で、まったくパットと一体となっているのです。
ウェザー・リポートで人気が爆発したが悲劇が襲う
その後、彼はジョー・ザヴィヌルとウェインショーター率いるウェザーリポートに呼ばれ、彼の演奏は更に輝きを増します。
中南米から来た若者のようなファッションで、激しいライブパフォーマンスを繰り出し、しかも出てくるフレーズはちょっと普通では想像できない音。トレードマークにもなったぼろぼろのフレットレスのフェンダージャズベースも彼の底なしの陽気で飛び跳ねるようなベースラインにぴったりでした。
ジャコがいた頃はどれも名盤だがこれが一番有名か
ウェザーリポートは彼を迎えて活動の頂点に達しましたが、その絶頂期でジャコは自分のバンドを作るために抜けてしまいました。その後、ワードオブマウスというどういうわけかところどころオーケストラも入る豪華なアルバムを作りましたがこれが不評で売れ行きが悪く、ワーナー・ブラザーズから契約を切られてしまいます。その後もう一枚"Holiday for Pans"というタイトルで録音しましたが、これが音源を保管をしていた人間が横流しをして、なぜか日本で発売されました。
ウェザー以後の正式なソロのスタジオ盤はこれしかない
この頃から彼はさまざまな心の苦しみを覚えるようになり、麻薬や酒に溺れてしまいました。ワード・オブ・マウスのツアーの後躁うつ病(双極性障害)と診断されます。
フロリダに戻った彼ですが、最後の一年は浮浪者のようになり、パブを放蕩し飲み歩いていたそうです。フロリダに帰ったのが祟ったのか、あまり昔の仲間たちにはかまってもらえなかったようです。ある晩、フロリダに来たカルロスサンタナのステージに飛び入りしようとして追い出され別のパブへと突入しようとしましたが、そこで格闘技を習得したガードマン(英語でパブやバーにいる困り者をつまみ出す係のことをバウンサーといいますが)に殴打され、顔面を複雑骨折し、脳挫傷を起こし、左腕も骨折し、数日後死亡しました。
もしジャコが大先輩達ともっと一緒にウェザーをやっていたら・・・とか昔の親友達がもっと気にかけてくれていたら・・・などなど悔やんでみてもしょうがないことですが、こうして35歳の天才は世を去りました。現在、子どもたちが(子どもが4人もいたんですね!)会社を設立し音源の整理と権利の保存に努める傍ら、12月1日になると彼を追悼する演奏会をフロリダで開催しています。
悲劇の天才が残した体も心も弾むようなパーカッシブなベース。もしまだ触れたことがなければぜひ聴いてみてください。
彼の初期の活動から晩年まで一気に知るにはこれ